1973年4月 (昭和48年) |
創業者の福田 宗志氏が前身である高岡貨物自動車株式会社の代表取締役社長に就任し、 明穂輸送株式会社に商号変更 |
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1976年5月 (昭和51年) |
メイホ産業株式会社設立 |
1981年 (昭和56年) |
北陸梱包株式会社を譲受、栄徳運輸株式会社に商号変更 |
1987年8月 (昭和62年) |
タテヤマ輸送株式会社設立 |
1988年 (昭和63年) |
北関東事業所開設(現 群馬営業所)【タテヤマ輸送株式会社】 |
1989年12月 (平成元年) |
有限会社女良運輸を譲受、メイホ物流株式会社に商号変更 |
1994年7月 (平成6年) |
九州営業所開設【明穂輸送株式会社】 |
1996年 (平成8年) |
有限会社新港タクシーを譲受、海王交通株式会社に商号変更 |
2003年3月 (平成15年) |
埼玉完成品センター開設【タテヤマ輸送株式会社】 新湊タクシー株式会社を譲受 |
2005年1月 (平成17年) |
共和水産株式会社に出資 |
2005年3月 (平成17年) |
北九州事業所新築開設【明穂輸送株式会社】 |
2006年6月 (平成18年) |
福田 剛平が代表取締役社長に就任 |
2006年7月 (平成18年) |
代表取締役会長 福田 宗志が逝去(享年64歳) |
2009年10月 (平成21年) |
新湊タクシー株式会社からいみずタクシー株式会社に商号変更 |
2010年2月 (平成22年) |
株式会社コーウン流通を譲受 |
2016年11月 (平成28年) |
有限会社村田運送から有限会社エムラインに商号変更 |
2019年8月 (令和1年) |
有限会社エムラインから株式会社エムラインに商号変更 |
1941(昭和16)年、富山県高岡市伏木に生まれる。父を12歳で亡くし、女手ひとつで育てられた。
小さいころから柔道で腕を鳴らし、地元の小・中学校を卒業後、単身で神奈川県の日本大学藤沢高等学校に入学。日本大学経済学部を卒業後、地元に戻り高校教諭となるが自分で事業をなすことに憧れ7年の教員生活の後、1970(昭和45)年に高岡貨物自動車に入社。
配車係からスタートし、3年後には専務取締役となったが、共に会社を切り盛りしてきた社長が事情により会社を手放すこととなった。そのことに愕然とするも当時30歳で一念発起。家族や周囲の大反対もある中、生家を売って資金を作り、その会社の株式を購入した。
1973(昭和48)年に社長に就任し、明穂輸送に商号変更。 柔道で培った「嫌なものには決して背を向けない」という強い気質と広く大きな心の持ち主。
それゆえに誰からも頼られる親分的存在。
困っている人がいれば時間も労力も惜しむことなくその人のために動く。
会社を従業員ごと引き受けたことも一再ではなかった。
その後会社は運送業のみならずバス・タクシー等の旅客業をはじめとして水産会社等がグループに加わり、会社はグループ10社、従業員400人弱の大所帯となった。
立山アルミニウム工業株式会社の協力会社で結成された40年の歴史を持つ立山会の会長をはじめ、日本電工株式会社の協力会社で作られる電工会の会長等をつとめたほか高岡中央ライオンズクラブ会長、ライオンズクラブ国際協会334-D地区2リジョン1ゾーンチェアマン、日本大学友会富山県支部事務局長、中部交通共済協同組合副理事長、全国トラック交通共済協同組合連合会理事を歴任した。
柔道においては学生時代に選手として国体に出場。また国体の富山県チームの監督を務める等活躍し、2003(平成15)年には高岡教育功労賞を受賞。
2006(平成18)年4月からは高岡市柔道連盟会長に就任した。
また私財を投じて『さくら柔道塾』を開くなど柔道の発展にも努めた。
それらの功績が認められ、2006(平成18)年7月、講道館柔道8段に昇段。
2006(平成18)年7月14日急逝。享年64歳。